人気作家は野球を観るためだけに旅に出る  ムーンライト・ブックストア 村井亮介

野球の国『野球の国』
奥田英朗著
光文社/2003年 光文社文庫

旅がらみでやってみたいことが二つある。一つ目は全国の競馬場をめぐる旅。これは山口瞳さんが『草競馬流浪記』(1984/新潮社)という素敵な本にまとめられている。二つ目は日本列島津々浦々野球を観てまわる旅である。12球団フランチャイズのある都市はさておき、県営・市営・村営レベルの地方球場で、その町の空気になじみつつ、野球を観てみたいのだ。場合によっては海外にも行ってみたい。ベネズエラ、行ってみたいなあ。
そんな旅をしてしまった人かいる。それもわたしのように失踪してもさほど心配されない古本屋経営者ではなく、プロの作家それも〆切りに追われている人気作家である。さて、前置きが長くなりましたが、今回紹介する本は奥田英朗著『野球の国』。出発当日の朝までギリギリ状態で原稿を書いていた当代の人気作家が、ただただ野球を観るためだけに旅に出るというおかしな本です。まあ、野球とマッサージと映画の3点セットですが。
著者は『空中フランコ』で2004年に直木賞を受賞。そういえば、この作品は『イン・ザ・プール』『町長選挙』とともに精神科医伊良部が活躍するコメディ小説シリーズ。主人公にこの名前を授けただけで著者の野球好きがうかがえます。読んだ方ならお分かりと思いますが、主人公の怪人ぶりは、かの大沢親分が「イラブクラゲ」と名付けた伊良部秀輝投手のイメージとともに増幅されるのだ。わたしはそうでした。
この『野球の国』ひそかに旅本の傑作とにらんでいる。旅ジャンルは実に多彩で、古くから紀行文の名作はあるは、温泉、グルメ、下町散歩、酒場放浪などあるはあるは。それぞれテーマごとに書き手がいて、競争がとても激しい市場といえる。この作品をひと言で言えば、自虐的な文章で読者を楽しませてくれる旅のエンターテイメント。後の『港町食堂』『泳いで帰れ』など奥田紀行シリーズは独自の作風を築き、一つの旅ジャンルを拓いていると思える。
著者は岐阜出身で中日ドラゴンズファン。当然ドラゴンズ愛がベースに流れている。空港や宿泊ホテルで選手と出くわした時の舞い上がりぶりがいい。野球好きは、オッサンになろうがジイサンになろうが、みんなそうなんです。旅の行き先は、キャンプ地沖縄の「北谷球場」、ドラゴンズ・スワローズ戦の松山「坊ちゃんスタジアム」、ホークス主催試合の「台湾天母棒球場」、イースタンリーグの「角館落合野球場」、広島・横浜戦の「尾道しまなみ球場」、そしてマスターリーグの「熊本藤崎台球場」。坊ちゃんスタジアムに行ったことがあるくらいで、あとは行ったことはない。だけど、どこもいい雰囲気のようで、旅情をそそられる。
のほほんと旅しているように見せかけているが、ちらりちらりと深くて斜めな野球への愛を垣間見せてくれる。「野球場をなんとかしておくれ。まずは神宮と横浜と千葉マリンを天然芝にしておくれ。これで野球は変わる」「ふん。プロ野球の贔屓チームを営業品目にする芸能人が、わたしは大嫌いなのである」「ふらりとキャンプ見学に来て、天気がよくなったら芝生に寝転がる。わたしは一人で堂々としている女性が大好きだ」「野球観戦でいちばん感動するのは、強肩外野手の返球を目の当たりにしたときだ」…こんな言葉に出会うと、「ふむふむ、そうだそうだ」と思わず膝を叩いてしまう。
発行されたのはちょうど10年前の2003年。新刊の時に読んだのだが、今回この書評のために読み返してみると、当然賞味期限が過ぎている箇所も出てくる。10年ひと昔とはよく言ったもので、知らないうちに選手も野球を取り巻く状況も変わっている。でも、野球好きなら、大豊泰昭や高橋智や藤井康雄やグスマンといった名前に出てくると、「ああ、いたないたな。元気にしているだろうか」と旧友にでも出会ったような気分になって、逆に楽しめるはず。
そして、最後にひと言。この本の装幀、いいです。表紙は抜けるような青い空にもくもくの白い雲の写真。「野球雲」そのものじゃないですか。 (2013-2)

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