偉大なるアメリカ小説  かわうそ堂・泉谷武蔵

素晴らしいアメリカ野球『素晴らしいアメリカ野球』
全集:世界の文学〈34〉
フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球/さようならコロンバス』集英社/1976年
ソフトカバー:『素晴らしいアメリカ野球(現代の世界文学)』集英社/1978年
文庫本:『素晴らしいアメリカ野球(集英社文庫)』集英社/1981年

アメリカの作家フィリップ・ロスが筆を折った、というニュースを知ったのは先月(2012年11月)のことだった。「折る」とか「断つ」といった強い言葉がふさわしくないほど静かな幕引きであったらしい。78歳。ここ3年間で新作はなく、今後も書かないつもりだと、本国のメディアではなくフランスの雑誌インタビューで表明した(それは当然フランス語で印刷された)。「つまり、おしまいだよ。」と彼は言った。契約出版社であるホートン・ミフリンが本人と確認をとったのはその後のことだった。
はじめに言っておくと、決して僕はロスの良い読者であったとは言えない。というのも、デビュー作にして全米図書賞受賞の「さようなら、コロンバス」と今回紹介する「素晴らしいアメリカ野球」を読んだきりだったからである。ほかの作品も興味はあったし読むべきだったとは思うが。
さてこの「素晴らしいアメリカ野球」が本国で出版されたのは1973年、ロスが40歳のときで、作家としてはもっとも脂の乗っている時期かもしれない。原題は「TheGreat American Novel」、分量は邦訳の単行本で二段組350ページとくればひと筋縄ではいきそうもない。語り手は老人ホームに暮らす老いぼれの元スポーツ記者なのだが、これがまず曲者である。ページをめくればのっけから猥雑な単語群が次から次へとアルファベティカルに羅列されてゆく。それはまさにあのメルヴィルの「モービィ・ディック」の冒頭を思わせる。しかし邦題にもあるとおりこれは野球の話であって鯨捕りの話ではない。
野球好きというのはスコアブックに残る数字と同じくらい、選手たちのまき起こすとんでもない逸話や武勇伝が好きなものである。アメリカ野球史から抹殺された第3のリーグ「愛国リーグ」に属するルパート・マンディーズは第二次大戦中にホームグラウンドを失い、放浪のチームとなる(ちなみにロスはユダヤ系)。片足の捕手、小人、老人から共産党のスパイまでが入り乱れるとんでもない逸話の数々。古今の文学のパロディやことば遊びが至る所にちりばめられ、政治や文明に対する皮肉と哄笑に満ちた饒舌なホラ話。前出のメルヴィルからバース、ピンチョンに至る大きな物語の系譜とマーク・トウェインに代表されるホラ話の伝統がここにはある。
そして何より、ロスが野球を心底愛しているということも忘れてはならない。それはリーグ史上最高のスイッチ・ヒッター、ルーク・ゴファノンの口を通して「三塁打」がいかに素晴らしいかを語る場面を読めばわかっていただけると思う。彼は言うのだった。「あんなものはこの世に二つとない」と。
われわれはもうロスの新作を読むことはできない。しかし注意深く観察すれば、彼の蒔いた種は世界中で素晴らしい実を結んでいることに気づくだろう。
引退のニュース SALON 『Philip Roth:“I’m done”』
http://www.salon.com/2012/11/09/philip_roth_im_done/

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